先日、古い写真を整理していた母が、私の祖父である古後米蔵さんの昔の写真をみせてくれた。
昭和15年に撮影されたもので、帝国馬匹協会主催蹄鉄術講習会記念、とある。
軍人さんもまじえて、熊本で開催されていたものらしい。
そこには、山高帽をかぶりスーツに身をまとった祖父がうつっていた。戦前の紳士の身だしなみはこうだったようだ。
祖父はいったいどのような波瀾万丈な人生をおくったのだろうか。

東京の麻布獣医学校に通う。実家は裕福ではないため、自力で学費と生活費を稼いだのだという。
学費をかせぐため、夜間は土木作業員のバイトを行っていたという。
二宮金次郎ばりに、徒歩での移動中に教科書を読み、電柱に頭をぶつけたり、どぶにおちこんだり、と、していたらしい。

晴れて卒業し、獣医の免許を取得した。一旦、郷里にかえったらしいが、田舎町での開業は難しく、東京で一旗あげるとの決意で、いまでいう西新宿の柏木にて獣医を開業したという。

当時の獣医は、馬の蹄鉄打ちも行っていたらしく、祖父の医院は、本院以外にも二カ所の出張所をひらき、弟子20人をやとい、繁盛したという。祖父の蹄鉄打ちの腕は評判となり、馬の行列ができていたとか。

賃貸長屋などをつくり、不動産賃貸業も行っていたという。

30歳で結婚。祖父の働きぶりに惚れ込んだ友人が、自分の妹を紹介したのが出会いだったという。
祖母、川島シズ。20歳だったという。

結婚の翌年、長男が生まれていたタイミングで関東大震災を経験したという。よくぞ、生き残ったものだ。
それから5年後くらいに体を壊したらしく、故郷に戻る事にしたという。

東京から妻と子供2人をつれて。ちょっとした冒険旅行さながらだったらしい。
当時は鉄道網も整備途中で、途中、馬車をやとったりしての引っ越しであったという。
もしも、東京に残ったならば、東京大空襲などにも巻き込まれていたに違いない。

あの当時、田舎町から単身東京に出て、一旗あげて、妻子を抱えて帰郷するという事。
なみたいていの事ではないだろうと思う。

すぐに玖珠町で開業する。私の生家があった場所だ。
そこで父と叔母が生まれた。
そこで、苦労をかさね、4人の子供を育てた。あとあと聞かされたが、4人以外に、3人の子供を失ったという。病気とか事故らしい。くわしくは聞いていない。当時はそのような過酷な時代だったのだと思う。

写真に写る昭和15年は、父が生まれて4歳くらいの時期にあたる。翌年には日米開戦。
そのような年だ。軍人さんが写っているということは、軍馬などとも関連があったからだろう。

長男が獣医の跡を継ぎ、別の場所で独立開業。次男は、実業家の道を進む。長女は教師となる。
末っ子の父は、家業を支えながら、28歳で公務員となった。県の土木事務所を点々とし、道路や橋脚の設計を行った。竹田市のバイパスは、父の立案だという。難易度の高いルート設定だったという。
父の軌跡についても、おいおい、ヒアリングしておこうと思った。
晩年の祖父をささえるため、父は蹄鉄術をマスターし、地域の馬主のニーズに応えた。
玖珠町において最後の蹄鉄打ちだった。

メガネをかけ、ヒゲをたくわえた祖父。これを見ると、無意識のうちに、祖父の後追いをしているに過ぎない自分自身がいる事に気づく。

私が生まれる数年前に祖父は他界した。だが、祖父の開いた獣医医院や蹄鉄打ち工場が残る環境で育ったのだった。

祖父が生きている間に交流があったならば、私も獣医の道を選択したかもしれない。
建築の道へと自然に舵をきったのは、祖母の家が大工の頭領の家庭だった事によるのではないか、と、親父はいう。たしかに、大学時代、大工のバイトを行い、スジがいいね、と、親方からほめてもらったのを真に受けて、大学をやめて大工になる、と言い出した事もあった。血液にながれるDNAがそうさせているのかもしれない。

両親が生きている間に、できるだけたくさんの事を聞いておくのが、身近にいる私の役目だと思っている。