大分県の玖珠町で産まれ、大学院生までの24年間、大分県で暮らしてきた。
正確に言えば、12歳までの12年間を玖珠町で過ごし、13歳から24歳までの12年間を大分市で過ごした。
就職後4年間を東京、大阪で過ごした後、29歳で再び大分に戻る。
今年で17年目。トータル41年を大分県で過ごしている。
県外で暮らしたのはわずか4年間しかない。

なぜに大分県かと問われれば、産まれた場所であるし、両親もいる。それだけといえばそれだけの理由だ。

大学時代から故郷をはなれる人が多いだろうと思う。
そして就職の時に離れていくものだろう。

次男坊だから、どこでも好きな所へ行ってもかまわないのだが、私の場合、もろもろの流れの中で長男的な役割を期待されるようになり、大学は地元を選択する。
選択といっても、学力の問題もあり、すれすれで地元の大分大学工学部に入学できた、というのが実情だった。家庭環境と学力によって、必然的に決まってしまったといっていい。

自宅から一番近い中学に徒歩で通い、自宅から一番近い高校に徒歩で通い、自宅から一番近い大学に自転車で通う。極めて狭い行動範囲のなかで、12年間を過ごしてしまった。
当時はなんとも芸がない選択行為だろうかと思ったものだが、最も合理的な選択だと今では思う。

就職は東京へ出る。そのような漠然とした気持ちがあった。大学3年くらいから、春や夏の長期休暇の時は、首都圏で大学生をしていた友人のアパートにころがりこみ、東京でバイトを探して実行した。
首都圏で暮らす予行演習のつもりだった。

大手ゼネコンの設計部への就職が決まる。このときは幾分葛藤があったが、将来は大分に戻り独立開業する。
そういう気持ちがあった。いくぶん、長男的な役割を意識していたし、独立開業するなら、地縁血縁のある大分で、という選択肢は合理的な発想であったと思う。

生まれ故郷に縛られる必要はなく、どのような選択肢も可能ではあったように思う。
東京で独立する可能性もあったし、大阪で独立する可能性もあった。福岡という可能性もあった。
日本を飛び出て海外という選択肢もあったかもしれない。現実的かどうかは別にしてだが。

結果論でいえば、地縁血縁のある大分市での独立開業は、苦労はあったが、思い描いた以上の成果をあげ、現在まで継続できている。

無限の可能性のなかで、無限の選択肢があったにもかかわらず、こうやって、産まれ故郷にこれだけ長い期間暮らし、これからもおそらくは継続していく。
サケの帰巣本能なのだろうかともおもうが、それだけでは説明がつかない。
これこそ、縁というものなのだな、と思わざるを得ない。

先般の恩師の退官祝賀会において、300人近い同窓生のうち、大分県で働いているのは10%程度である。これは、大分県出身者の数とほぼ一致するだろう。それだけ、県外出身者が多いという事でもある。

そして、建築家として生計を得て実績をあげているものは数%程度しかいなく、故郷大分で奮闘できているものの筆頭が私、という事でほぼ間違いではないと確信した。
大分大学は建設工学科であり、現在では住環境福祉と名称を変えている。
建築家育成に特化した大学ではないといってしまってもいいだろう。
建築家が産まれにくい大学といえる。

故郷への愛と同時に、故郷へのふがいなさも感じる。
同じく、母校への愛とともに、母校のふがいなさも感じている。
私はどのようにして、故郷と母校に恩返しできるのか。