実家の物置から昔の成績表やら賞状やらが出てきた。
終活で断捨離を始めた両親。
もう捨てていいか、と問われる。
一旦、持ち帰り、ひととおり目を通してみる。

表彰状を眺めてみる。

■小学校一年
・全国たなばた競書大会「銅賞」(日本習字教育連盟、昭和51年07月25日)
・第25回玖珠郡学校書き方大会「銀賞」(玖珠郡書写指導研究会、昭和51年07月26日)
・全国硬筆競書大会「銀賞」(日本習字教育連盟、昭和51年09月25日)
・全国かきぞめ競書大会「銅賞」(日本習字教育連盟、昭和52年01月02日)
■小学校二年
・全国たなばた競書大会「金賞」(日本習字教育連盟、昭和52年07月25日)
・第26回玖珠郡学校書き方大会「銀賞」(大分県書写書道研究協議会玖珠郡支部、昭和52年07月28日)
・全国硬筆競書大会「観峰賞」(日本習字教育連盟、昭和52年09月25日)
・全国かきぞめ競書大会「観峰賞」(日本習字教育連盟、昭和53年01月02日)
■小学校三年
・第27回大分県児童生徒創作美術展「県入選」(大分県造形教育研究会、昭和53年07月06日)
・全国たなばた競書大会「銅賞」(日本習字教育連盟、昭和53年07月25日)
■小学校四年
・郵便貯金スケッチ大会高学年の部「入選」(玖珠郵便局長、昭和54年05月20日)
・第28回玖珠郡書き方大会「銀賞」(玖珠郡書写教育研究会、昭和54年07月28日)
・玖珠郡教育文化祭「図画入選」(玖珠郡地教委連絡協議会、昭和54年11月03日)
・あなたの作文コンクール「入選」(玖珠郡学校教育部会国語部会、昭和55年02月04日)
・第18回大分県児童生徒版画展「県入選」(大分県造形教育研究会、昭和55年02月15日)
■小学校五年
・第29回玖珠郡書き方大会「銀賞」(玖珠郡書写教育研究会、昭和55年07月27日)
・第19回大分県読書活動コンクール「入選」(大分県学校図書館協議会、昭和55年12月04日)
・読書感想画コンクール「入選」(玖珠郡学校図書館協議会、昭和55年12月04日)
・第15回OBS私の作文コンクール「銅賞」(株式会社大分放送、昭和56年01月24日)
・第19回大分県児童生徒版画展「県入選」(大分県造形教育研究会、昭和56年02月19日)
・玖珠町あいさつ運動ポスター公募展「入選」(玖珠町青少年健全育成協議会、昭和56年02月26日)
・第6回玖珠郡作文コンクール「佳作」(玖珠郡小学校国語部会、昭和56年03月01日)
■小学校六年
・第30回玖珠郡書き方大会「銅賞」(玖珠郡書写教育研究会、昭和56年07月27日)
・第20回大分県読書活動コンクール「入選」(大分県学校図書館協議会、昭和56年11月05日)
・読書感想画コンクール「入選」(玖珠郡学校図書館協議会、昭和56年12月05日)
・第7回玖珠郡作文コンクール「佳作」(玖珠郡小学校国語部会、昭和57年01月30日)
・第1回ジュニアデザイン展「県入選」(大分県造形教育研究会、昭和57年02月12日)

■中学一年
・第3回作品コンクール「銅賞」(大分市米消費拡大推進協議会、昭和57年11月30日)
■中学三年
・第二十三回福田平八賞大分市小中学校図画展「福田展入選」(大分市教育長、昭和59年11月21日)

■高校1年
・校内霊山強歩大会「努力賞」(大分県立大分雄城台高等学校、昭和61年02月08日)

こうやって列挙してみると、客観的に見えてくる。

大分県玖珠郡玖珠町の田舎の小学校に在籍していたが、書道、作文、絵。県入選なども毎年頂くほどの非凡な才能が見られる。(厳密に考察すれば、県入選レベルだからそうでもないが)
生徒会の書記をつとめたりと、たいへん優良な小学生だった事がわかる。
当時の日記を見ると、アホ丸出しの日記なのだが。
前世でなにをやっていたのだろうか。

中学生になると大分市に引っ越してくる。盗んだバイクで走り出すような中学生時代であったが、それでも、3年の時には、福田平八賞などというたいそうな名前の表彰制度で入選していたようだ。3年の時の担任が美術の先生であった事もあり、徹夜で遊んで授業中に寝ているくらいの荒れた中学生だったが、美術の授業では大層ほめられた。どんなものを出品したのか覚えていない。レタリングかなにかだっただろうか。

高校になるとラグビーまみれで、強歩大会の参加賞的かつ屈辱的な努力賞くらいしかもらっていなかった事がわかる。ラガーマンなのに持久力がなかったようだ。本来は上位入賞していなければならないのだが。
この大会のあと、上位入賞以外はバツ練習が待ち受けていた記憶がある。
高校1年の通信簿を見ると、クラス45人中35番目の成績だった。もっとも評価の高かった科目は美術であった。そういえば、美術の授業の先生とは仲がよかったし、楽しかった記憶がある。100点満点中、80点という評価になっていた。書道中心の授業だったように思う。
高校3年の春の大会をベスト8で終えて、私のラグビー人生は終わる。
そのときには、学年350人くらいのなかで300番台の成績だった。
スポーツ系の才能は微塵もない事がみてとれる。
ラグビーの才能がある人は、この時点で、県大会優勝とか、花園とか、大分選抜、九州選抜、日本選抜などに選ばれているのだろう。
スポーツもダメ、勉強もダメ。そのような崖っぷちの高校生。両親からは、私立に行かせる余裕はないから、国公立が条件、浪人などもってのほか。大学受験を失敗したら、自衛隊にでも入隊しろ、という非情な決定事項が伝えられていた。
必死に勉強した半年間。私の大分大学工学部への合格は奇跡と呼ばれた。
卒業式のあと、恩師に挨拶にいくと、逆転満塁ホームランだな、と、係った先生達は大層喜んでくれた。
国公立合格数に私の数字はまったく期待されていなかったらしい。
しかし、一人の先生は渋くいい放った。「皆は逆転満塁ホームランというが、俺からみれば、三塁打くらいだ。もっと上もいけたはずだ」と。
大学進学の学部をどこにするのか、という問題も、両親からすれば、小学校時代の私をみていれば、自然と、建築なんかが向いているんじゃないか?という事だった。
私ものんきなもので、そうかもね、くらいのノリで、建築学科があり、自分でも受かりそうな所。
そんな感じで選択したにすぎない。
琉球大学と大分大学に滑り込む。
偏差値は下位クラスであった。
琉球大学でサーファーになる。大学4年間を沖縄で満喫するぞ、という妄想がふくらんでいたが、両親からすれば、仕送りなどを考えると、負担は雲泥の差。
大分大学であれば、自宅通学できるし、奨学金ももらって、バイトすれば、ほぼ金がかからない。
両親の必死の説得で大分大学に進む。

こうやって、客観的に振り返ってみると、中学から迷走を始めた様子がわかる。
後悔はしていない。中学、高校の経験や記憶が、現在の私のベースを作ってくれていると痛感する。

とはいっても、小学校の頃の非凡な才能はなんという事でしょう。
本をたくさん読み、文章を書き、書をたしなみ、絵画や美術の才能を片田舎で発揮していた事。
中学・高校のときに美術部にでも入っていれば、どのようになっていただろうか。
武蔵野美術大学などを目指してしたかもしれない。少し後悔はしている。
タイムマシンがあるとすれば、中学一年の頃に戻って、そっと、バウハウスの本でも机においてみたりすればいいだろうか。

賞状などを写真に撮影し、過去の記録の現物をいさぎよく処分した。
これからどう進路をとっていこうか。