大分の建築家の先駆者、山口隆史先生が逝去された。享年74歳。
山口先生は、大分大学の非常勤講師、晩年は、客員教授として、学生の指導にあたってこられた。
私の大学三年時の設計グループ演習において、指導していただいた。ちょうど、私と30歳離れている。私が学生の時、51歳。

当時の設計演習のテーマは、若松通りという商店街をどのように活性化するのか、というテーマだった。
学生とともに、いろんな提案をおこなったのが、その後、府内五番街として、現実化した。
街づくりにとりくむ建築家の執念を見させていただいたように思う。
私のグループも、果敢に提案をし、若竹公園や、大分銀行赤レンガ館の再生など、意欲的な提案をおこなったが、若竹公園は府内アクアパーク、赤煉瓦館も再生された。
我々の提案が直接どうこうなったというわけではないが、着眼点としては、至極妥当な提案だったなあと思う。それも、今思えば、山口先生に誘導されていたに過ぎないが。

その後、私の作品、あいアージュとともに、府内五番街が、大分アートビレッジ顕彰において表彰されたとき、山口先生と歩きながら、いろいろとお話させていただいた。
学生時代の恩師とこういった場でご一緒させていただけるようになった、と、感慨深いものがあった。

そこまで深いおつきあいはなかったが、大分の建築家育成において、多大な貢献をされたように思う。

課題演習のとき、学生といっしょに商店街をねりあるき、居酒屋でご一緒させていただいたシーンがいまでも鮮明に残っている。
手すりの直径を感覚的に理解しろ、と。握っただけで、35φだな、とか。
建築家とはこういうものか、と、初めて知ったシーンだった。

さっそうとバイクにのって講義にきていた。
ヘルメットとゴーグル。ファッションにもこだわりがあった。ダンディ。

槇さんの風の丘葬祭場で旅立たれたそうだ。わたしも、そこがいい。直接お見送り出来なかったのが悔やまれる。

山口先生との出会いが、私をこの道にいざなった。そう思う。遺志をどのように引き継いでいくか。指導を受けた大分大学生の全員のこれからの命題だ。