もうひとつのトラウマだろうか、ゼネコン設計部時代の1年目の時の夢もいまだに見る。
移動辞令が下され、新しい職場で自分の机まわりを整備しているようなシーンが多い。
夢の中なので荒唐無稽なシーンも多いが、これまでの職場をミックスしたような不思議なオフィスが毎回登場する。

設計部の同期入社は5人。出身大学でいえば、私が最も偏差値の低い大学だった。
ひとまず、5人は本社にて3ヶ月くらいの研修期間を過ごした。
5人がそれぞれ、同じフロアの各課に配属される。
そこで、雑務から経験を積む事になった。
本社勤務、支店勤務。支店にもランクがあるとされており、東京支店、横浜支店、大阪支店。
誰がどこに配属されるか。この研修期間中の行動が、本社設計部の全員から見守られている。
そのような雰囲気であった。

本社は渋谷。郊外の独身寮に入り、渋谷に通う。
東京生活を満喫する余裕もなく、大勢の監視下のもと、緊迫する日々が続いた。

なにがどのように評価されたのは分からないが、配属先発表の時、私は本社勤務を命じられた。
東京支店に2人、横浜支店に2人が配属された。
やはり、本社勤務がエリートとされていたようだ。
配属発表後、いろんな人が、古後君だろうとおもっていたよ、と声をかけてくれた。事務のお姉さんまで。
おそらくは、いろんな人のヒアリングをおこなったのだろうとおもわれた。
わけへだてなく、誠実に対応していたのがよかったのだろうか。
全員から審査されていたのか、と愕然としたものだ。

本社勤務が決まったあと、正式に配属されたのは3課だった。
1課、2課、3課があった。
やはり、1課が花形とされていたようだ。まずは、3課からスタート。そういうものらしい。

本社勤務になったとはいえ、本社はエリートそろいであり、毎年、各支店で頭角を表した人とか、海外留学組とかが配属されており、流動もはげしかった。さて、この本社で何年間持ちこたえられるのか。
非情に窮屈な職場環境であったように思う。毎日ピリピリしていた。
時期にかかわらず、おもうような力を発揮できないものは、すかさず移動命令が出ていた。
今度は誰それが飛ばされる。そのような噂が飛び交っているような職場だった。

1年間が過ぎようとしていた時に、阪神大震災が起こる。
応援部隊として、大阪支店に数ヶ月派遣される。倒壊マンションの調査とか、復興まちづくりの計画策定などにたずさわった。
支店にいくと、本社批判が渦巻いていた。たしかに、本社勤務の長い人はエリートではあるが、実務を知らない人が多かった。支店の人はたくましく見えた。私の中で価値観が大きく変わった時期でもあった。
3ヶ月の応援の後、大阪支店への転属願いを出した。大阪支店の先輩がかわいがってくれた、という事もあるが、正直なところ逃げたのだ。

このときの、1年間。ミスすれば飛ばされる。そういった恐怖感がトラウマとして残っているのだろう。

いまだに、この当時の夢を見る。
大阪支店時代の夢はほとんど見ない。そこまでのストレスはなかったのだろう。いや、ストレスはたくさんあったが、なぜかしら、夢には出てこない。ということは、フィジカルなストレスだったという事だろう。

アメリカンウッドデザインアワードで審査員特別賞を頂いた時に、代官山のヒルサイドテラスでの表彰式に参加したあと、当時の上司に連絡をとり、本社に顔を出した。居酒屋で祝杯をあげる。
同期達はあちこちの支店でがんばっているらしかった。
当時とかわらず、社内での評価に一喜一憂しているように見えた。
本社で奮闘している人達はすごいなあとおもう気持ちもあるが、本社という小さな井戸のなかで、サバイバルゲームをやっているようにも見えた。

古巣を飛び出して良かった、とおもったものだが、いまだに夢に出てくるというのは、大きな組織のなかで頭角を表し、登り続けていきたかった、という挫折感があるのだろう。

いまでは、小さな城ではあるが、一国一城の主。株式会社の社長だ。
法人化を急いだのも、この内面にある挫折感を埋めようとしての行動であったように思う。

組織の中ばかりを見るのか、組織の外に目を向けるのか。
組織を飛び出して自由に動き回る方が私には向いていたのだろう。

これらのトラウマをすっきりと解消できるのはいつだろうか。