ケーススタディハウスの建築家群のなかで、キリングワースの作品が最も好きだ。
イームズがもっとも有名なのだが、私の好みでいえば断然キリングワースになる。

ちなみに、わが母校、大分大学では、特別な予算を獲得し、構内にふたつの住宅の名作のレプリカが建設されている。イームズ自邸と、篠原一男の白の家だ。
どのようにチョイスされたかはわからないが、なかなかのチョイスではないかと思う。
私がその選定に携わっていたならば、キリングワースを推薦したであろう。資料収集が難しいだろうが。

独立した当初、住まいの図書館のケーススタディハウスが、私のバイブルのような存在だった。
そこに、キリングワースへのインタビューが載っている。

結局のところ、自分が気持ちよく、好きな空間を作ってきたし、これからもそうする、と。シンプルな言葉があった。ああ、それでいいんだな、と、妙に納得した覚えがある。

じゃあ、自分はどのような空間が好きなのか。最初はあれも好きこれも好き。狙いがいっこうに定まらなかった。しかし、これだけ作品が増えてくると、おのずから、自分はこういう空間が好きなんだなあ、と、いやがうえにも実感させられてしまう。

もう、これでいいのだな、という思いが固まっている。

じゃあ、キリングワースのような建築なのかと問われればそうでもない。
誰のマネというものでもなく、自然と醸成されていったというべきだろうか。

根底には、イタリア合理主義建築への好みがあるのだが。
好きな物に理由などいらない。そのうちわかる。

できうるかぎり、合理的に好みや恣意性を排除してきたが、どうしてもわずかに残る好み。
それが、その建築家の味になるのだろう。

自分の道を見失いそうになったとき、おりにつけて思い出すのが、このキリングワースの言葉だ。